経営理念・行動指針

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社会保障費

私が事務局担当となり、東京で開催している勉強会で発表する為の資料作りの一環で、GW中に調べものをしていました。

2021年に次回、介護保険の改正があるのですが、以前、参加したセミナーで素案の一部を知ることが出来ました。その時、余りに衝撃的な内容だった為に、怒りと動揺が先に来てしまい、冷静な判断が出来なかったのですが、改めて、冷静になり日本の社会保障費の問題点について、資料をかき集めたところ、厚労省、財務省の素案の意図に合点がいきました。

詳しくは勉強会で発表するので、割愛しますが、社会保障費の増加が、今のペースで続くのは不可能だと言うことは理解出来ました。
介護だけでなく、医療、行政、国家公務員を含めたシュリンクが必要になることは間違いないと思います。

これは国難だなと、腹を括りました。ただ、チャンスも出てくるでしょう。チャンスに賭けてみようと思います。



インスタグラム

インスタグラムは私は全くやらない。皆が夢中になって、探し求めている美しい風景、不思議な出来事、楽しい思い出を一枚の画像に収めたい気持ちは良く分かる。

昔であれば、絵を描いて、個展を開いたり、写真を撮影して、皆に配るのと同じことなんだろうと思う。
最近の若者は・・・という話にはなるが、人間の真理は不変だなと妙に感心してしまう。僕であれば、美しい詩の旋律をみると、インスタグラムと同じ様に、人にシェアしたくなる。昨日の夜、ボードレールの『悪の華』に掲載されている、『通りすがりの女に』のソネットに感嘆した。(ソネットとは14行からなるヨーロッパの定型詩)

時代は違えど、人の心の在り様は一緒なんだな。

レジリエンス

レジリエンスとは立ち直る力や能力のことを指すらしい。何かで行き詰まりを感じたり、憤怒することがあり、精神的に参った時に、どう自分と折り合いをつけていくか、レジリエンス能力が高い人はその折り合い力が高いのではないか?

職業柄、圧倒的に人から相談やイライラをぶつけられるケースが多い。自らが吐露し、嫌な部分を露悪することの方が少ない。仮に話しても理解が得られないし、相手からして見れば、立場上、言いづらいケースが多いからだ。

行き詰まりや、悩みの隘路に入り込む場合には、どうだろう。大抵の場合、視野狭窄に陥っているケースがほとんどだ。

結局のところ、お酒を飲んだり、旅行に行っても気分が晴れないのは、視野が広がらないからだろう。一時的に開放的になってもまた現実は朝の光と共に我々に照射するからだ。

僕の持論では自営の創業者や作家は、ろくな生き方をした人がいないというのが持論だ。そういった人達の生き方を参考にすると自分の悩みなんて何て小さいんだと思ってしまう。中上健次、森瑤子等(小説幻冬に森瑤子の半生が連載されている)、世に作品を出すために、とんでもない人生を歩んでいる。その歩みを本にぶつけない限り、彼らは生きることが出来ないと思う位だ。だからこそ作品が光り錚々たる作品が出されるのだ。

僕は追体験をし、作家の生き方を知り、自分の悩みをどこかで飲み込んできた。心がクラッシュしないのは本のおかげでもある。

父親が会社を営んでいたので、幼き頃より生活に困窮したこともあった。母と度々銀行に行った記憶があると思っていたら、実はそこは質屋だったなんて。数多のケースを見てきたせいか、視野狭窄にならずに済んでいるのかも知れない。

昔は戦争があった、争いがあった、生きるか死ぬか、そんなときに嘆き悲しむ暇はない。世の中が平和になり、成熟した証左なのかも知れない。

残念ながら経営者は常に薄氷を履む人生なので、寧日が無いのだ。悩みは少なくとも、日々、苦しいのだ。筋トレを毎日している感覚に近いかも知れない。

人口減少

我が故郷、横須賀は毎年5000人から1万人単位で人口が減少している。働く場所がない、東京から若干遠い等、理由はあるのだが、市が様々な手を打っても、人口減少が止まらないようだ。

ある人の記事を見たのだが、『都会と田舎の違い』は文化的な生活や匂いがあるかだと書いてあった。文化的な生活がないと、文明的な生活を送ることはなく、アカデミックなことへの渇望や希望を抱くことが困難だと書かれていた。田舎から東大を卒業されたそうだが、都会に生まれただけで、大した実力もない子が有名な大学、しいては東大に進学することに驚きと格差を感じたと書かれていた。給与の格差以前に文化の格差の方が教育格差として大きいのではないだろうか?という提言だった。

もしかすると横須賀の人口減少問題もそこに問題があるのではないだろうか?とふと考えてしまった。

横須賀も中核都市ではあるのだが、私が暮らしていた19年間の間に残念ながら文化的な生活や匂いは全くなかった。アカデミックな渇望を欲しても満たされる環境は確かに少ない。だからかな、大学や就職で都会に出た人は都心に引っ越し、帰ってこない。アカデミックな楽しさや文化的な楽しさを享受してしまうと田舎は正直、考えが狭く、生活が窮屈になってしまうからだ。

私の例でいえば、小学校の同級生で大学に通ったのは100名中5~10人位だった。都内有名大学となると3人位しかいない。中学もしかり、高校もしかり。難関と言われる大学に進学したいと親に言っても、地元の大学か、横浜の専門学校に行けとしつこく言われた。大学に合格しても喜ぶどころか、そんなところに行ってどうするんだと嫌な顔をされた。横浜のすべり止めの大学に行けと散々説得された位だ。地元だけで暮らしているとアカデミックな感性は嫌がられてしまうのだ。

中学2年のテストで高校受験を失敗し、都内の進学校と言われる私立高校に進学したいと言った時も猛烈に反対され、仕方なく近くの中堅以下の県立高校に入ったのも、田舎の空気感がそうさせたのだろうと思う。


隣町の葉山や逗子には文化的な施設は少ないが、文化的な香りや文学的な馥郁(ふくいく)を感じる。そこに魅力を感じ、都会まで通うのだ。横須賀にはその部分が足りないのかも知れない。教育と文化に力を入れるのは効果は見えないが、将来、見えない力として横須賀を支えてくれるのではないだろうか?


存在と時間

母親は退院に向けて元気そのものだ。むしろ家族に疲労感が出ているようだ。
僕は、母の元気とは裏腹に、ふと愛犬のことを思い出しては、悲しみと思い出に浸る瞬間がどうしても日々、噴出してしまう。

忘れたいという気持ちと忘れたくないという気持ちが私の心で葛藤し、忘れたくない気持ちが打ち勝つときに、出現するのだろう。
同一無二の愛犬はこの世には存在しないことは重々理解しているので、時間と共に悲しさは、波と共に消え去ってしまう。

宗教と哲学と言うのは、非なるものだが、とても密接な関係だと思う。近代哲学が一貫して言いたいことは、『存在と時間』だ。『今、私がいる。』というのが存在だ。そもそも存在とは誰に与えられたのか?自然なのか?神なのか?宗教と哲学に関連があるのは、そこをどう捉えるかが重要であり、その解を求めて、ニーチェやデカルトが様々な解を提示してきたのだ。

神や自然に生を与えられた瞬間から、死から生への時間が発生する。対象物として消滅をしたとしても、精神的な存在、成果物等は時間を超えて残る。時間的概念を死と共に終えるのか、本人と識別できるものがある限り、時間軸を伸ばしていくのか?宗教的な概念に委ねられる部分である。

我ら仏教は、時間の概念を転生輪廻(何度でも生まれ変わる)として、我々に説明をしてきた。『存在と時間』は繰り返され、また今生の地に舞い戻ることが可能だと説いた。

私が愛犬を亡くしたときに救われたのは、輪廻転生という概念だった。ハイデガーが『存在と時間』、サルトルが『存在と無』を世に送り出しているが、あくまでもキリスト教から見た考え方であり、仏教から見た『存在と時間』、『存在と無』は捉え方が違うのである、日本人であることに感謝しつつ、愛犬の輪廻転生を祈るばかりである。


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